院長紹介
経歴 |
・山東中医薬大学 中医学部 卒業 ・大連医科大学 循環器内科 修士修了 |
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資格 |
・中国衛生部 中医執業医師 ・はり師 きゅう師 ・医薬品登録販売者 ・日本顔面神経学会認定 顔面神経麻痺リハビリ指導士 ・不妊症・不育症ピアサポーター養成研修修了 |
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【プロフィール】
はじめまして、大阪市北区で鍼灸院と漢方薬店をしている、はり灸漢方恩宝堂院長の池田長悦です。
初めて当院を知られる方へ、当院の施術に対するお考えや患者様に向き合う気持ちをお伝えするためにプロフィールを設けました。
是非、最後までご覧いただければ幸いです。 -
【生い立ち】
私は小さい時から身体が弱く、いつも風邪を引いて学校を休んでいました。
気がつけば、気管支喘息になり、何度も病院で点滴した思いがあります。
身体が弱い分、いつも勉強をさせられました。
父は私に勉強を押しづけることで自分が有名大学に入れなかったことに負い目を感じていたからです。
私には自分と違い、豊かな人生を過ごして欲しいと思っていたようです。父との思い出1
そのため、無理をしてまで、進学校に入れさせようとしました。
小学校5年生から進学塾に通い、夏合宿や定期模擬試験等の基礎学力強化授業に参加させられました。父の口癖は「学校の勉強は学校で終わらせて当たり前、残った時間で塾の勉強をしなさい。」でした。
その時の私は、父や母に逆らうことが出来ず、言われるがままに従いました。
テレビゲームとアニメは中学受験が終わるまでとり上げられました。
勉強はハードで辛く、早く受験から解放されたい思いで一杯でした。
学校が終わると塾に行き、塾から戻ると宿題プリントが、山のように机の上に積み上げられました。
宿題をやり終わった時には、日付が変わることもありました。
そんな努力の甲斐もあって、第一志望の中学校に合格できました。
その時、父が私以上に喜んでいる姿を見て、自分も嬉しくなり、涙が流れました。
ただ、私は内心、これで嫌な勉強から解放されたという思いでした。 -
【中学、高校時代】
中学入学後は、無遅刻、無欠席で真面目に授業を受けていたので、成績は良く、それに安心したのか高校に上がるとクラブ活動に熱中し、勉強が疎かになり、成績が下がりました。
そのような私を心配してくれた担任の先生とは、何度も面談し、改善方法を教えてもらいましたが、それでも成績は振るわず、留年ギリギリでした。成績不振で悩み苦しんだ高校時代
そんな私でも高校2年生になった時には、進路について考えさせられました。
私が通っていた高校では、毎年、国公立大学に100名以上合格する進学校ですが、当時の私の成績では国公立医学部は難しく、地方の私立ですら合格できる自信はありませんでした。
このようなことを踏まえ両親と相談し、家から通学できる私立の医学部を志望校とし、2年生、3年生と嫌いな受験勉強を頑張りましたが、結果は不合格でした。
私にとっては、医学部に入れなかったことより、両親を失望させたことがとてもショックで、しばらくの間は落ち込み、誰とも口をきくことができませんでした。 -
【中国留学】
高校卒業後は、医学部受験のために、予備校に通い、毎月の模試試験のために必死に勉強しました。
それでも予備校の緊迫した雰囲気に馴染めず、精神的、体力的に追いやられ、模試の評価もE判定でした。
そんな状況でも父から模試試験の評価を咎められるのを恐れて、図書館で勉強をしました。
そんな時に、東洋医学の原典である『黄帝内経(こうていだいけい)』が目に入り、手に取り読み始めました。
そのテキストに書かれている東洋医学の自然一体論、気の思想や陰陽論に陶酔し、貪るように一気に読み終えました。
そんな中でも、気、血、津液と呼ばれる『物質』の機能改善をすることで、病を予防する『未病治(ちみびょう)』という考えに驚き、強い共感を覚えました。
いつしか、中国に留学し、中国医学を勉強したいという思いが強くなっていく自分に気づきました。
そのため、医学部受験へのモチベーションが下がり、受験勉強にも手がつかなくなりました。図書館で手にした本
この現状を見た両親は、私の医学部進学を諦め、「どこでもいいから大学に入りなさい。」と言われたので、中国留学を打ち上げると賛成してくれました。
中国には、主に西洋医学を専門とする医師と、東洋医学を専門とする中医師という2種類の医師制度があり、中医師は東洋医学を専門とされる診察や投薬ができる医師で立場上日本の医師と同じです。
留学生として、中医学部に進学するには一定の中国語能力(HSK6級以上)が必要でしたので、北京大学で中国語の勉強をすることになりました。
これまで全く中国語には縁がなかったので、大学の講義だけでは心もとないと思い、中国語勉強の一環として、中国人学生とルームシェアをしました。
北京大学は日本で言えば東大にあたり、中国全土から優秀な学生が集まっており、彼らと一緒に過ごすことで学習意識が高まり、何としても中国語をマスターしようと頑張りました。
半年後には、HSK6級よりも高い7級に合格しました。その後は北京中医薬大学に進学するつもりでしたが学費や生活費が高く、仕送りで生活を賄うため、学費の安い山東中医薬大学に進学しました。通常、留学生は簡単な学習の外国人クラスに入れられ、卒業後に中医師国家試験に合格する迄の知識や技術を習得することが困難な為、大学側に中国人学生と同じ条件で勉強したいと直訴し、中国人学生と同じ教室で勉強することができました。そのため、大学の講義はすべて中国語でパワーポイントを使い、進捗スピードが速く、1学期で8教科以上の必修科目がありました。その都度、講義内容をボイスレコーダーに録音し、キーポイントとなる重要内容を繰り返し聴きながら、日本語に翻訳し、内容を理解したうえで覚えるようにしました。
また、各教科ごとに課題レポートが課され、中国語で書き上げるのに時間がかかり、大変な思いをしました。期末試験は症例分析という論述問題も多く、単に暗記だけでなく、思考力、理解力も試され、かなりハードなものでした。大学で使用した教科書
そんな中、私が今でも忘れ難い出来事が、大学3年生の時に受けた『傷寒論(しょうかんろん)』と『温病論(おんびょうろん)』の期末試験でした。『傷寒論』と『温病論』は、東洋医学の原典とされる教科書で、古文で書かれており、他の教科書より内容の理解が難しい上に試験範囲が広く、過去問対策だけでは不十分でした。
そのため、試験前日までにできるだけ多く、試験内容を覚えるようにしました。
このように死に物狂いで勉強をしたせいか、試験当日には咳、高熱を出し、ふらふらになりながら試験を受け、終わった時には鼻血が出ました。
そんな努力の甲斐もあり、留年もなく、無事、卒業できました。大学卒業記念
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【臨床実習生】
中国では、5年制の医学部卒業後に1年間の臨床実習を終え、医師国家試験の受験資格が与えられるため、私は附属病院に実習生として、オファーを出しました。
しかし、附属病院から高額な実習費を請求され、留学生は、一般の中国人に比べ、高額な実習費を払わなければならないことに、憤りを感じました。
当時の私は両親からの微かな仕送りで生活していた為、経済的余裕はなく、支払うことができず、途方に暮れましたが、そんな時、父親が病院長をしている友人に、藁にも縋る思いでお願いをしたところ、その病院で実習させて貰うことができました。
実習費は払わずに済みましたが、片田舎にある病院での実習生活はとても不便でした。
病院の宿舎は老朽化し、今でも倒壊しそうな建物で狭い4人部屋にシャワーや暖房がなく、水道水で体を洗い、アルコール度数の高いお酒を飲みながら、寒さを凌ぐという生活でした。実習先の病院
1年間の実習プログラムは、内科、外科、婦人科、小児科、眼科、耳鼻咽喉科と漢方鍼灸外来に分かれ、2ヶ月おきにローテーションするというものでした。
初めは、指導医師のもとで徒手検査、カルテの記入、定期的な症例報告の資料作りを担当することになりました。
私の指導医は大変厳しい方で、実習生が独自でOSCE(客観的臨床能力試験)に沿った問診、検査、治療措置を行い、それらの結果をカルテに記入し、指示通りに書かれていない時は、すぐに怒鳴られました。
ある時、ステンレス製のカルテを2階の窓から外に放り投げられました。
今となって考えるとカルテが通行人に当たって、けがをさせる恐れがありました。
また、鍼灸外来では、眼や耳鼻咽喉領域、顔面神経麻痺、自律神経バランス改善、肩こり、腰痛、甲状腺機能亢進、不妊、脳梗塞等の患者さんが多く来院されました。
実習先の病院では、老中医(ろうちゅうい)と呼ばれる臨床経験豊富な中医師が在籍しており、顔面神経麻痺患者さんの拘縮した顔に灸透鍼(きゅうとうしん)を行いました。
また、燔鍼(ばんしん)という火で炙った鍼を患部に素早く刺して、素早く抜く施術も行っていました。灸透鍼と燔鍼は中国古来の施術方法で日本でも取りいれる鍼灸師がいます。
私は老中医の外来診療に付き添い、高度な鍼灸技術を目の当たりにし、その素晴らしさに感動しました。
その経験から将来は、「自分も老中医のようになりたい」と思いました。
このように私にとって、臨床実習は有意義なものでした。当然ながら中医師国家試験の勉強も必要でした。日中は病院で患者さんの施術にあたり、夜になると宿舎に戻り、国家試験の過去問題をひたすら解き、消灯時間が過ぎても、懐中電灯の灯りをもとに勉強をしました。
そのため、1年間勉強に費やした時間は約3000時間でした。中医師国家試験は、毎年、合格率が20%前後の難関試験です。
これは、中医学部卒業後、臨床実習を1年間、経験した後に受験資格が与えられることと、大学在学中に国家試験対策講義がないことにあります。
また、中医学部卒業後の臨床実習先は、各自で決める必要があり、私を含め同級生の実習先病院がばらばらなので、1人孤独で試験勉強をする必要があります。
このように孤独で、いかに自分に打ち勝つが決め手になりますので、合格率が低くなりやすいです。中医師試験受験票
そんな、状況下でしたが、努力の甲斐があり、中医師国家試験に一発で合格できました。
当時、私の試験成績は372/600点、正答率62%、その年の合格ボーダーラインは360点でした。
死に物狂いで勉強したのに、点数が伸びなかったことに少し落胆しました。
同じ宿舎で私を含め4人の実習生がいましたが、合格できたのは私だけでした。
日本人留学生として、中医師国家試験に合格できたことを実習先の病院が宣伝した為、地元のメディアに取り上げられました。 -
【中医師、医学修士】
中医師試験合格後は、中国大連にある日本人向けクリニックで、訪問診療の仕事につきました。
主に鍼灸・漢方相談を行いながら、現地の日本人コミュニティーにも積極的に参加しました。
当時、中国で日本人中医師は珍しく、重宝がられ、連日多忙な日々を過ごしていました。中医師免許証
そんな中、大連医科大学循環器内科の姜一農(きょう いちのう)教授と知り合いになることができました。姜先生は、日本の愛媛大学医学部に留学され、そこで医学博士を取得された臨床医学の医師ですが、中医学にも理解のある先生で、私に大学院で研究をしないかと声をかけてくださいました。
中国の大学院は、臨床型修士と研究型修士に分かれており、私は臨床経験を積むために臨床型修士に進学し、姜先生の高血圧、心不全研究チームに加わることになりました。
日本留学経験のある姜先生とは、日本語でコミュニケーションを取ることができ、これまでと違い、楽な感じで研究を進めることができ、また、姜先生との距離感も近くなり、親近感が芽生え、快適に過ごせました。
私は修士1年目に中国政府奨学金を申請し、許可されたので、大学院在学中の学費、生活費、宿舎費が無料となりました。
これらは全て、留学生として中医師国家試験に合格し、日本の文部科学省からの推薦で公費留学生として、中国政府からの奨励を受け、実現したことでこれまでの努力と苦労の賜物です。中国政府奨学金採用通知
このようなことがあり、姜先生の下で臨床研究に没頭することができました。午前中は、附属病院で外来診療に同行し、主に高血圧の原因となる副腎性クッシング症候群、原発性アルドステロン症の腹腔鏡カテーテルによる副腎動脈の採血、ホルモン検査を行いました。
私の修士論文は、「原発性アルドステロン症におけるBNPの有効性について」です。
原発性アルドステロン症は、副腎皮質で分泌されるホルモンで過剰に分泌されると高血圧を引き起こす要因となります。
原発性アルドステロン症の治療には、利尿薬が使われますが、長期投与でカリウム低下症を引き起こし、それに代わるBNPの有効性について、論文にまとめました。
BNPは、脳性ナトリウム利尿ペプチドで、心臓機能が低下すると多く分泌され、また、血圧を下げ、利尿を促進させます。
私にとって修士の3年間は、臨床医学に触れる大きなきっかけとなり、中医学以外の知識を修得することで視野が広がりました。そして、修士修了後に、日本へ帰国しました。 -
【大学教員】
日本中医薬学会参加記念
日本帰国後は、友人の父が理事長をしている大学の教員として勤務することになりました。当時の肩書は、鍼灸学科助手で、主な仕事は、教授が講義で使用するパワーポイントやプリント作成、期末試験の試験監督でした。
医療系大学はどこでもそうですが、毎年の国家試験合格率により、来年度の入学志望者数が左右される傾向にあります。
そのため、教職員一同は、必死で合格率を上げようとしていましたが、教授ともなると自身の専門分野以外の国家試験対策講義は、やりたくない仕事でした。
そこで、中医師である私に白羽の矢が立ちました。
日本のはり・きゅう教育も中医学を基礎にしているので、はり師、きゅう師国家試験よりはるかに難関である中医師国家試験に合格した私が適任とされたようです。
また、『あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律』で外国で取得した資格は日本で認められない為、大学で『はりきゅう実技』を教えることが出来ず、実技教育も任せたいと思った大学から、はり師・きゅう師資格を修得するように言われ、同じ法人が運営する専門学校に通うことになりました。
大学での仕事は拘束時間が長く、想像以上に激務で、学生指導以外に雑用を課せられました。
専門学校入学後も、夜間の授業に間に合うようにと残業はなく、定時で退勤できましたが、その分、休日出勤させられました。仕事と勉強を両立させるために休むことなく働き、テスト前になると睡眠時間を削りながら勉強をしました。
その時の精神状態は、張り詰めた弦のようでいつ切れても、おかしくない感じでした。上司に相談しましたが、何の改善もなく、同じように仕事と勉強を続けていたせいか、以前に比べ、眠れない日が続き、突然、泣き出してしまうこともありました。
心配になり心療内科を受診し、うつ病と診断され、睡眠導入剤を処方されましたが、服用しても効果はなく、知り合いの鍼灸院に受診し、継続して施術を受けると少し症状が改善しました。
その後、大学を休職し、自宅療養に専念しながら国家試験の勉強をし、そして、無事合格できました。はり師、きゅう師免許証
ただ、長期休職を理由に、大学側からの契約更新はされず、そのまま退職となりました。
その後、漢方薬を取り扱うことを目的に医薬品登録販売者資格を取得しました。中国の中医師は『はり・きゅう・漢方薬』の併用で治療を行い、その効果は『はり・きゅう単独』、『漢方薬単独』より大きなものです。
日本でも同じことをするには医薬品登録販売者の資格が必要で、漢方薬を販売するには販売従事実務経験が必要でした。
それを取得するべく、ドラッグストアに勤務しました。 -
【父の死・命の大切さ】
私がこれまでに尊敬していた父、中医師になって誰よりもうれしく思ってくれた父が突然心不全で他界しました。
父も気管支喘息を患っていたため、普段から咳、呼吸困難で幾度も病院にかかっていました。
60歳を過ぎてからたばこをやめ、これから生まれてくる孫を楽しみにしていた父が私の1人息子が生まれる半年前に帰らぬ人となりました。
厳しくも優しかった父がこの世にいない現実を受け入れられず、また以前のように眠れない日が続きました。
私の精神状態を心配してくれた母はあらゆる方法を使って私を説得し、励ましてくれました。
そんな時、待望の1人息子が生まれたことに喜び、精神状況は少し回復しました。
父との思い出2
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【東洋医学と臨床医学】
父の死から半年後、少し精神状態が安定し、鍼灸整骨院に勤務しました。主に肩こり、腰痛に対して電気施術やトリガーポイントと呼ばれるところに鍼をする施術をしていました。
毎日、流れ作業のように施術をしていましたが、勤務先の整骨院で決められた方法でしか施術できず、中国での経験が全く生かされずに、時間だけが過ぎていく感じに、今後どうなるのだろうと不安に苛まれました。
ただ、帰国後は、「医師」としての中国と日本との違いに苦しみ、日本で自分の経験を活かすことができないことに悩み、鍼灸師としての将来像も描けず、このまま忸怩たる気持ちで、単に生活するためにだけ仕事をしなければならないのかと思い悩んでいました。
コロナが収束した後、退職しました。日本顔面神経学会認定
顔面神経麻痺リハビリ指導士 -
【恩人との出会い】
その後は鍼灸院天空代表 卯野祐樹先生とご縁があり、先生が経営する鍼灸院に勤務することになりました。
卯野先生は東洋医学、現代医学に精通し、線維筋痛症、自律神経失調症、不妊などを専門とし、鍼灸として実践している数少ない鍼灸師です。
私にとって理想的な環境であり、自分に足りないコミュニケーション力や経営力を鍛えられました。
父が生前、私が鍼灸院を開業することを願っていました。
このまま、卯野先生にお世話になるのもいたたまりなく思うようになりました。
そのことを卯野先生にお伝えすると「今後、開業し、経営のことで困ったら、いつでも相談してや。」と協力してくれました。
私は卯野先生のありがたいお言葉に感動しました。
私の強みは東洋医学の舌診や脈診で診断し、鍼灸と漢方薬で患者様の複雑で深い悩みである症状を和らげられることです。
また中国の大学院で臨床医学研究を行っていた為、現代医学で病の根本を詳しく説明することができます。
中国の韓愈雑説(かんゆざっせつ)に「千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」、いかに才能がある者でも、それを認めてくれる人がいなければ、力を発揮できない。卯野先生は私の能力を最大限に伸ばしてくれました。
私にとっての伯楽であり、掛け替えのない恩人です。不妊症・不育症ピアサポーター等の
養成研修 -
【私の思い】
当院は日々の施術の中で患者様と信頼関係を築きながら鍼灸・漢方相談を進めていくことで、想像以上の結果を出せることができます。
私自身も気管支喘息、うつ病を鍼灸で改善できたことなどから、鍼灸・漢方の良さを改めて実感し、臨床家として極めたいという思いで一杯です。
私は循環器領域、脳神経領域、眼と耳鼻咽喉領域、妊活を専門としますが東洋医学をベースとした当院は様々なお悩みに対応できます。
鍼灸と通じて、本当に健康な“こころ”と“からだ”を取り戻してほしいです。
また当院の施術を受けた患者様が笑顔になることを目的にしています。
患者様に向き合い、重い症状で悩んでいる方を少しでも多く健康に導くことができるような鍼灸・漢方を行っていきたいです。